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~人種差別(Fred Korematsu v. United States, 1944)~

2011年9月8日、日本がサンフランシスコ講和条約と旧日米安全保障条約に調印し再び独立国家になって60周年を迎えた。当日、調印の場であったプレシデオで在サンフランシスコ日本国総領事館主催による式典が行なわれ、玄葉外務大臣のメッセージが猪俣総領事により代読され、クリントン米国務長官のメッセージがヘイズ国務省サンフランシスコ事務所長により代読された。式典は、裏千家15代家元である大宗匠、千玄室氏による献茶式で幕を閉じた。

今回は、戦時中の日系人に関する判例を考察してみよう。

<Korematsu v. United States>

この1944年の米最高裁判所の判例は、有事など国家の最重要目的のために特定の人種や民族を差別的に扱う法律や法令は違法か合法かを問い、2001年の同時多発テロ以降も注目された議論である。

<背景>

1941年12月7日に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した後、米軍部の推薦によりルーズベルト大統領は、翌年「大統領令9066号」を発令し、西海岸地区に住む12万人の日系人の強制収容が開始された。うち7万人は米国市民であった。

オークランド出身の市民であったフレッド・コレマツ氏は、米軍に入隊志願したが健康上の理由(日系人が理由との説もある)で却下され、溶接工としてオークランドの造船所で勤務していたが、日系人であることを理由に何度か職を失った。1942年、コレマツ氏は、強制収容を拒否し、整形手術を行いヒスパニック系として偽名を使いサンリアンドロで隠れていたが逮捕され有罪となった。コレマツ氏は、日系人の強制収容は人種差別を禁止する米国憲法違反として上訴した。

<上訴審>

1943年の上訴審では、国防のために政府の行為は適切であったとされたが、コレマツ氏は再度上訴した。

<米最高裁の判決>

1944年、最高裁では、多数派(6対3)の意見をヒューゴ・ブラック判事が代弁し、「大統領令の目的は公共の安全のためであり、有事において大統領は米国の最高司令長官として公共の安全を守る権限を持つ」とした。更に「大統領令は日系人を人種差別するものではなく、スパイ容疑者から国を守るためである。日系人の中から米国に忠誠を誓っている者と敵対する者を判別することは困難であるため、日系人全体を強制収容の対象とすることは憲法違反ではないとした。」つまり、スパイから国を守る必要性は日系人の個人的権利より重要であるとの判決が下された。

後になって判明したことだが、当時の法務局長は、海軍諜報部による調査により「日系人が米国に対して反政府的スパイ活動をしているという証拠は見られない」との結果を最高裁判決前に入手していたにも拘らず、当該証拠を法廷から隠蔽していた。

<1983年の判決>

最高裁の判決の39年後、コレマツ氏は、日系人の若手弁護士(デール・ミナミ弁護士、ドン・タマキ弁護士、他)の支援により訴訟再開に漕ぎ着け、1983年11月10日、米国地方裁判所から誤審令状を受け、当時の有罪判決の無効手続に成功した。コレマツ氏は、パテル判事に対し「私は、政府に一切の間違いを認めて欲しいのです。人種、宗教、肌の色に拘らず、同じアメリカ人が二度とあのような扱いを受けないようにして貰いたいのです。」と答えた。

<政府の謝罪>

1980年、カーター大統領は、戦時中の日系人の強制収容に関する調査を命じ、その結果、1988年、存命中の日系人は米政府からの謝罪と一人当たり2万ドルの補償を受けることになった。更にコレマツ氏は、当時のクリントン大統領から米市民最高の大統領自由勲章を授かった。

<最後の活動>

 コレマツ氏は、存命中最後まで公民権保護のために尽力し、米国愛国者法(USA Patriot Act)で認められている政府の過度な権利は、アラブ系米国人の公民権を犯すものであると反対活動を行なっていた。コレマツ氏は、2005年3月30日に86歳で逝去された。

本記事の内容は、一般的事実を述べているだけであり、特定の状況に対する法的アドバイスではなく、それを意図したものでもない。個々の状況に対しての法的アドバイスは、直接当事務所にご連絡頂くか、専門の弁護士にご相談されることをお勧めする。

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