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~人種差別(Brown v. Board of Education, 1954)~

複数の人種と民族が共存する米国において、人種差別に対する法的解釈はどのように変化してきたのであろうか?今回は、米国の公立学校における人種に基づく「分離(Segregation)」政策を禁止した米最高裁の判決、Brown v. Board of Educationについて説明しよう。米国の社会の授業では避けて通れない判例であり、人種に関する社会問題や均等機会の原則を議論する上で常に引き合いに出される判例である。

<Brown v. Board of Educationに至るまでの歴史的背景>

米国の歴史を最初に刻む1776年の独立宣言では「…all men are created equal,…」とあるが、1788年に採択された米国憲法や1791年に採択された権利章典(Bill of Rights)と呼ばれる修正第1条から10条では、「法の下の平等」を謳っていない。賛否両論の奴隷制度により黒人に対する差別制度は根強く残り、1857年の米最高裁の判決では、「黒人は米国市民になれない。」とされたのである(Dred Scott v. Sanford)。南北戦争後、ようやく憲法修正第13条により奴隷制度が廃止され、修正第14条により「米国で誕生/帰化したすべての者は、米国市民である。」とし、「すべての住民に対し平等な法の保護」が保障されたのである。

しかしながら、1896年の米最高裁の判決(Plessy v. Ferguson)の原告であるプレッシー氏は(8分の7白人、8分の1黒人)、ルイジアナ州法によると一滴でも黒人の血を分けた子は白人ではないとされたため、白人の列車に乗車を拒否された。最高裁の最終判決では、白人と黒人の待遇が同じであれば別々の車両に分けて乗車させることは憲法修正第14条違反ではないとし、事実上、白人と黒人の分離政策を合法化したのである。

その後、1950年代に至るまでの約60年間、バージニア州からテキサスに至る米国南部のほとんどの17州では、白人と黒人の生徒が別々の公立学校に通うべく分離政策が法で義務付けられた。ニューヨーク、ニュージャージー、マサチューセッツ州などの東北部とイリノイ、ミシガン州などの中西部、また西北部のワシントン州などの16州では分離政策が禁止されていたものの、南/北ダコタ、カリフォルニア、ネバダ州では特に法規定が存在していなかった。

<判例の背景>

カンサス州の一部では分離政策が行われており、トピーカ市に住むブラウン氏の小学校三年生の娘リンダは、地元近所にある白人の学校ではなく、町外れの遠くの黒人の学校に通っていた。ブラウン氏は、娘のために近所の学校に転入届けを出したが拒否されたため、似たような境遇の家族とともにトピーカ市教育委員会を相手取り提訴した。

<地方裁>

地方裁の判決は、1896年の最高裁の判例(Plessy v. Ferguson)を引用し分離政策は合法とし市教育委員会の勝訴となった。

<米最高裁の判決>

最高裁では、アイゼンハワー大統領に指名されたウォレン長官のリーダーシップの下、全員一致で市教育委員会の分離政策は法の下で平等な保護を謳った憲法修正第14条違反であるとし、ブラウン氏の勝訴となった。判決では、黒人と白人の学校が例え同じ施設で同じレベルの教育を提供していたとしても、分離自体が黒人の子供達に悪影響を及ぼすとした点が斬新であった。

<判決の影響>

しかし、南部の白人の反発は根強く、バージニア州のバード上院議員は反対運動を起こした。アカンソー州のフォーブス州知事は兵隊を動員し黒人生徒の登校を阻止しようとしたが、アイゼンハワー大統領が連邦軍を動員し黒人の支援を行うような始末であった。

<考察>

同判決は、学校の分離政策を禁止したものの、レストランや他の公共施設の分離を禁止するものではなく、また一定期間内に是正するという指示はなかったため、同判決を悪用するケースも出てきたが、半世紀以上にも亘る前例を覆す判決を下したことで大変重要なものである。現在の連邦や州の雇用法で規定されている差別禁止の基礎となっている。

本記事の内容は、一般的事実を述べているだけであり、特定の状況に対する法的アドバイスではなく、それを意図したものでもない。個々の状況に対しての法的アドバイスは、直接当事務所にご連絡頂くか、専門の弁護士にご相談されることをお勧めする。

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